まだのうぐいす

今年の冬はおかしなことにさっぱり雪がない。
今日なんかもう春みたい。
生ぬるい風も吹いている。
そういえば、去年の今時分にも、こんな生ぬるい風が吹が吹いた日があった。
その日、寒くないから入り口の戸を開けっ放しにしていたら、
髪の長い女性が、片手を差し出すようにして、ずんずん店に入ってきた。
よく見ると、何かをそっと握っているようだ。

「道の真ん中で動かなくなってて、車にはねられたら危ないから拾ったの。
ここで預かって」
言いながらふわりと開いた掌には、深緑の、小さな小さな鳥がいた。
嘴から尾の先まで、手の腹にすっぽり収まっている。
女性の押しの強い物言いに少しひるみながらも、
あまりのかわいさにしばし見とれる。

どうしようか、困ったなぁ、、と考えあぐねていると、
そうだ、いい大きさの箱があった、と思いつく。
いただいたお菓子の小さな箱。
ちょうど鳥の巣みたいな緩衝材も入っていたから、
その上にそっと寝かし置く。

そのまま、外に出て鳥がいたというところに案内してもらうと、
にわかに鳥は身を起こし、
あっと言う間もなく飛んで行ってしまった。

店に戻り、『身近な鳥の図鑑』という本で調べてみたら、どうやら鶯のよう。
春に「ホウホケキョ」と鳴くあの鶯は、
春を待つこの季節にも、
すぐそこにいたんだね。
声は聞こえないけどいたんだね。

2020年2月13日(木)

大晦日のこと

2019年もあと1週間となりました。

この店は築百年を超える木造の建物で、今年の冬もいつも通り寒い。
もう建物をあたためるのは諦めて、着込んで寒さをしのいでいます。

去年の年の瀬のこと。

年末の片付けをしていらしたのか、何回かに分けて少しづつ買取の本を持ち込まれる60代くらいの女性がいた。自転車に姿勢良く乗っているのを店の近くで時どき見かける。大柄なわけではないけれど、遠くからでも目につく毅然とした雰囲気の女性だ。私はいつも心もち緊張して応対していた。

何度目かの買取の際、当時店の一角にあった古着コーナーに目をやりながら「古着も扱っているのね。私も着ていない洋服があるんだけど、、、」と話しかけられた。
古着を買い取って欲しいということだと受け取り、「古着は買取していないんです。」とお伝えすると、「買い取ってほしいわけじゃないんだけど、、、。年末はいつまでやってる?」と尋ねられたので、「30日まで営業します。31日は営業はしませんが、私は昼間はお店にいます。」と答え、その後そのことを忘れていた。

大晦日。
道路には前日から降った雪が薄く積っていた。私はその年の営業を終えたという開放的な気分で、大掃除というにはほど遠い簡単な店の片付けをしていた。

昼が過ぎた頃、その方は大きな手提げ袋を携えていつものように自転車でやってきた。「はいこれ。私、もう着ないからあなたが着て。」とその袋を差し出す。(ん?あたなが着て?私が?着る?)突然のことに戸惑いながらも、大きな紙袋を受け取った。

中を見ると、青い毛糸で模様編が施されたニットのカーディガンが入っている。金の縁取りのある飾りボタンがついていて、肩パット入りのマダム風。丈が長く裏地もついているからボリュームたっぷりだ。マフラーも3枚、綺麗に折りたたんで重ねられている。

その方とはこれまで世間話すらしたことない。どうして急にカーディガンをくださったのだろうと、しばらく考えて、こう思いついた。
ご来店された際に、何度来てもお店が冷え冷えしていたので、きっと私のことを寒かろうと案じてくださったに違いない。それでマフラーも一緒にくださったんだ。

実際、そのカーディガンはものすごくあったかく、今年の冬は、頼もしい防寒具として愛用している。海のような青も私好みだ。
かさじぞうみたいに何かお礼をしたいと思っているけれど、あれ以来一度もご来店されていない。

2019年12月26日(木)

紫陽花

わが家の紫陽花は青い。
小学校時代、教室には生徒が持ってきた花が飾られていた。ある日、庭の紫陽花がきれいに咲いたので、母はハサミでチョキン、チョキンと切って、デパートの包装紙にくるっと巻いて私に持たせた。しかし水揚げがうまくいかず、教室に着いた頃には花も茎も下を向いてしまった。

使い古しの包装紙の中でくたっと萎れた紫陽花。貧乏ったらしくみじめだった。友達は透明なセロファンに包まれたユリとかバラとか買ったお花を持って来るのに、自分の花がそうではないことが恥ずかしかった。持たせた母が恨めしかった。紫陽花は花瓶に入れても元の姿には戻らず、その日一日、うなだれた紫陽花を見ないように目を背けた。

去年の6月、シンガーソングライターの寺尾紗穂さんのライブを同志と企画した。朝、出掛けに庭で濡れそぼった紫陽花を見て、ライブで飾ろうと思いついた。家に戻りバケツに水をたっぷりはる。大きな花も小さな花も、やたらめったらに切ってバケツに挿していった。
紫陽花は絶対に萎れさせてはいけない。

はからずも、ライブの中で寺尾さんは「あじさいの青」という曲を歌った。庭の紫陽花はピアノの脇に飾られ、しっかり頭を上げて聴いている。あの時の思いが、時を経てようやく晴れた気がした。

ライブから一年経ち、紫陽花は乾いて白くなった。今年も6月にライブハウスのもっきりやで寺尾さんのライブが開かれる。

2019年5月4日(土)

 

全然大丈夫?

古本屋になって、感覚的に仕事の半分くらいは本を運んでるような気がする。台車づかいがうまい人は本を山ほど載せて、ひょいひょいってな感じで軽々と運ぶ。
私は台車が苦手だ。小さな面積にうまく積めない。重いのが嫌だからたくさん積みたくない。台車は積み荷の安定性が低いし、道にはしばしば凹凸がある。私は段差で必ず荷崩れさせてしまう。8年前より少しはマシになっているのだろうけれど、未だに店の中でも体をぶつけて本を崩れさせることがある。

2013年の4月、赤池佳江子さんの個展「「シアター at ブックストア」を店にて開催した。本屋が出てくる映画の一場面を描いた展覧会だったのだけれど、その中に「全然大丈夫」という映画の絵があった。その映画には、古本屋で働くものすごく不器用な女性が登場する。転んだり、ものを落としたり、こぼしたり、それが流れ作業のように連続で起こったりする。その失敗の仕方は、はたから見るとあり得ないほど誇張されたシーンなのだろうけれど、私は、あるある!と我がことのように胸が痛んだ。

家に帰るとその女の子は、部屋で一人、雨の音が録音されたカセットテープを聴いていた。そういえば、雨の日、誰も来ない店の店番はいい。

いつまでたっても一丁前に台車を操れる日は来る気がしないけれど、こんなありさまでも古本屋なら許してもらえるような気がするのは甘えだろうか。

2019年4月30日(火)

すみれが咲いた

8年前、開業したての頃、店の入口と道路の間に植物が生えていることに気付いた。コンクリートの間の隙間に根を張っている、いわゆる「ど根性」植物だ。
4月、その株から薄紫の小さな花がいっぱい咲いた。すみれだった。新米店主の私は店先に花が咲いたということだけで嬉しかった。

しばらくすると毛虫がわいて、葉っぱを根こそぎ食べてしまった。北側で日当りも決して良いとは言えない場所だし、葉も無くなってしまったので、きっと枯れてしまうだろうと残念に思っていたのだけれど、次の春も、その次の春も淡く小さな花を咲かせ、年を経るごとに株は増えていった。

そして毎年青々とした繁りを確かめるのが慣いになり、なんとなく縁起がよいような気がして友人に株分けをした。
その翌年、友人のお宅でプランターに植え替えられたすみれに再会し、驚いた。茎は細くしなやかに伸び、葉も花も上品に見える。本来の姿はこんなだったの!?育つ環境によって、たった一年でこうも変わるの!?まったく別の種類かと見まがうような姿になっていたのだから。

店のすみれは今年もぎゅっとひしめき合って咲き始めた。窮屈そうだけれど、ずんぐりとしてたくましく、それはそれは愛らしいのだ。

2019年4月20日(土)

古本屋エレジー

4月14日の日曜日、春分の日から始まった阿部海太個展「古本屋エレジー」が終了した。

昨年の8月、この世の終わりかと思うほど暑かった夏、阿部海太さんから、次回の展覧会はもう少し踏み込んだものにしたい、古本屋の言葉をテーマにした絵を描きたい、というメールをいただいた。私が文章を書き、海太さんは絵を描くというスタイルで一緒に展覧会を作りたい、というのだ。

いつもだったら、めっそうもないこととお断りするところを、ひょっとして、億劫がりの私でも海太さんと一緒であれば新しいことにチャレンジできるかもしれないという出来心が芽生え、やってみることに決めた。しかし私の怠惰の根は深く、そのまま四ヶ月が経ってしまった。

年の瀬、待ちくたびれた海太さんが話を聞きに金沢までやってきてくれた。海太さんと話していると、海で泳いでいるときみたいにのびやかな気持ちになった。とりとめもない話を受け止めてもらえるという安心感を得て、年が明けてから海太さんに「おはなし」を送り始めた。

一旦書き始めると次々に思い出されてきた。「おはなし」は、出会ったひとや本、出来事についての具体的な話が中心だったが、断片のいくつかは海太さんによって絵へと昇華された。相談の結果、絵に文はつけないこととした。要素は絵の中に溶けてる。必要ない。

搬入の日、海太さんの絵は私の想像を見事に裏切っていた。「ああ、あの話の絵だ」とすぐにわかる絵がない。
全然、全く、さっぱり、わからない!
愉快な気持ちになった。
それぞれの絵について説明は受けなかった。わからないから、わかりたかった。絵は毎日違った風に見えた。

その中に黄昏の古本屋の絵があった。DMに使用された絵だ。
陽は落ちてしまっているのに、
道はぬかるんでいるのに、
絵の中のひとは、身震いをひとつして勇ましく歩いて行くように思えた。
混乱する私は置いてけぼりだ。

2019年4月18日(木)

『瞼のひと』

ひと月ほど前。寒いある日。年配のご夫婦が傷みの激しい本をレジに持っていらした。値札を確認するため後ろから数ページをパラパラめくると、たどたどしい文字の鉛筆書きが目に入った。

「はかれる日 かなしく思う、、、、、、、」

はかれる日って何だろう。

お客様には「書き込みがありますね、、、」と言いつつ、続きを目で追う。私の手が止まったのを見て、ご主人の方が気を遣ってか「鉛筆だから消せますよ」とおっしゃった。会計しながら、書いてあることを目に焼き付ける。そして、「消さないで下さい」と二人にお願いした。

はかれる日 かなしく思う

そかいのためだ そかいのためだ

さようなら

昭和十九年○月○日 ○○○子

「はかれる」は「わかれる(別れる)」だった。

書き出しの「わ」音なのに「は」が使われていて、当時なら「思ふ」「さよふなら」と書かれそうな部分が、「思う」「さようなら」と書いてあった。拙い文字の具合や仮名遣いの自由さから察するに、小学校4、5年生くらいか。別れに際して親密な誰かへ贈ったものか、はたまた、離れがたい気持ちを日記のように書き留めたものか。

本は室生犀星の『瞼のひと』(昭和17年 偕成社)だった。

せせらぎ通り店を始めて今年の3月で6年になろうとしています。この6年の間に、店の棚に並んでいた数多くの本がほうぼうに行ってしまいました。もっとよく見ておけば良かったと後悔している本があり、もう二度と手に取ることができないだろうなと思い出す本もあります。

(くらしのためだ くらしのためだ さようなら)

昨年末にあったこの出来事をきっかけに、私の「瞼の本」について書いてみようと思いました。今はここにあるけれど、いつかどこかへ行ってしまう本のことも。

人から人へと渡っていく本の通過点の覚え書きとして、気軽に書いていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

2017年1月7日(土)